三ケ日みかんの特徴

三ケ日みかんの確立

 

三ケ日町は温州みかんを静岡県で広めることになった場所ですが、現在に至るまでが平穏だったわけではありません。三ケ日町では明治時代の中期から大正時代までは、みかんよりも養蚕の方が盛んで、せっかく植えられたみかんの木も、抜かれて桑の木に植え換えられたりしたこともあったのです。

 

実際当時は、ミカンはあまり儲けの出る作物とは言えず、養蚕の方が遥かに利益になったのです。当然、蚕の餌のために畑には桑の木を植えたわけだったのですが、大正時代も中頃以降はようやくみかんの値段も上がってきて、いよいよ栽培も増加するようになったのです。

 

みかんの栽培技術が向上したのは、大正9年に専任技術員に着任した中川宗太郎氏の貢献が大きく、当時としては画期的なみかん栽培をこの三ヶ日で熱心に指導したのです。

 

その技術は、まきの木の防風林、せん定、防病害虫防除、土作りなどの内容で、三ヶ日の土地や気候に適したみかん栽培技術が広まっていったのです。

 

更には、みかんの価格を安定させるため、従来のような山売りを止めて、出荷組合による販売方法が考案され、地区単位で出荷組合もできて共同出荷が開始されました。こうして不況時代も乗り越えて、三ヶ日みかんはその栽培の灯を絶やすことなく、今日を迎えているのです。